車券必勝法

「次はいつ戻って来るの?」と言う母親の声が聞こえたような気がした。

 マサキは数年ぶりに訪れた実家を後にした。定職には就かず、いつもホテルなどを泊まり歩いていたが、金に困ったことはなかった。大学を出てからずっとこの調子だった。

  ふと、マサキは布多天神社に寄って見ようという気になり、たばこ屋のある角を右に曲がった。ところどころに妖怪のモニュメントが置いてある商店街を歩いて行くと、交差点の向こうに神社の鳥居が見えてきた。

 マサキは神社の雰囲気が好きだった。子供の頃よく遊んだ所だからかもしれなかった。商店街にいた妖怪達は、漫画の中では、この神社の森に住んでいる設定だと聞いたことがある。そのせいか境内には観光に来たと思われる人がちらほら見られた。

 ガヤガヤと声がして、十人ほどの人々が境内に入って来た。町内会か何かだろうか、老若男女入り混じった団体だった。

 マサキはその中に、見覚えのある女がいるのに気づいた。女の方もマサキを知っているらしく、向こうから近づいて来た。二十七か八くらいの髪型をボブにした小柄な女だった。

「マサキさんですよね」

 会釈を返したが名前は思い出せなかった。

マサキの困惑した表情には気も留めず、女は一方的にしゃべり始めた。

「みんなで多摩川沿いから歩いて来たのよ。漫画の舞台になった所を巡る会なの。この前もその会だったの」

「えっと、この前と言うと?」

「あらやだ。ごめんなさいね。あたしミネコよ。温泉で会ったじゃない。群馬県の温泉。ほら、源泉館ってところ」

  マサキは以前、学生時代の友人を訪ねて群馬県の温泉宿に行ったことがある。

たしか前橋の競輪場に行った帰りだ。マサキに競輪の事を教えてくれた友人だった。その友人は、素行不良と言う理由で退学になった時、これからは実家の温泉宿で働く事にすると言っていた。連絡先はわからなかったが、群馬と新潟の県境にある源泉館という名前だけは聞いていた。

 しかし、訪ねあてた温泉宿は友人とは無関係だった。しかたなく一泊することにした。

 深夜、大浴場で、頭の禿げたおじいさんに声をかけられた。過去に何度か会った事のある人だったが、名前が思い出せなかった。その人はコモリだと名乗った。

「あんた、神社でよく遊んでた子じゃろ。宴会中なんだが、いっしょにどうだい。若い娘が一人いるんだけど、年寄りばかりじゃさびしかろうと思ってね」

 こんな調子だった。その宴会で紹介されたのがミネコだった。

 しかし、マサキはその時、ミネコ達とどんな話をしたのかまるで覚えていなかった。

 翌朝、マサキが目を覚ましたのは自室の布団の中だった。

 宿に聞いてみると、団体客なら朝早く出発したとの事だった。ミネコとはそれ以来だ。

「よお、元気だったかい」とコモリがニコニコしながら声をかけてきた。

「あんた競輪が好きじゃったろ。わしらも競輪場に入って見ようと思ったんだがの。今日は開いてなかったわ」

「今日はナイター開催だから、たぶん開門時間が遅いんですよ」

「おお!そうじゃったか。ミネコちゃん残念じゃったのう」とコモリはミネコの方に目をやりながら言った。

 マサキはミネコ達に乗せられている気がしていたが、成り行きに任せることにした。案の定、ミネコはこれから競輪場に行きたいと言い出した。マサキがこれから競輪場に行くものと決め付けているようだった。

「わしらはもう歩き疲れたよ。若い人だけで行ったらいい」

 コモリがそう言うと、会の面々はそれぞれ挨拶を交わしながら三々五々帰って行った。

残ったのは結局ミネコだけだった。

「午前中、多摩川沿いを歩いたのよ」

 京王多摩川の駅で降りると、ミネコは多摩川の方を指差して言った。

 マサキが車券を買おうと思っているレースの時刻にはまだ早かった。マサキは少し多摩川沿いをぶらついて見る気になった。

 高架横の道路に沿って百メートルほど歩くと、信号のある横断歩道が見えてきた。

それを越えると多摩川の河川敷だった。

「河川敷は運動広場って感じよね。石なんか水辺にしか落ちてなさそうね」

「石ですか。もしかすると、無能の人とかを描いた漫画家の作品の舞台を巡る会だったんですか?」

「そうよ。知ってるじゃない。作者が住んでるんで、調布を聖地みたいに言う人もいるわね」そう言うと、ミネコは河川敷を横切って水辺に歩いて行った。

「遠くの方でウィンドサーフィンやってるわね。貸しボートはないのかしら」

「下流の小田急線辺りに貸しボート屋があったと思うよ。今もあるかは知らないけど」

 何を思ったのか、ミネコは一つの石を拾い上げると、こう言った。

「この石、買わない?」

「何かアクセサリーに加工してあれば買うかもしれないね」

「この石がお守りになると言ったら?」

「神主さんに一筆もらってきて欲しいね」

「どっちもちょっとした手間よね」

「その労力が売れるんですよ。きっと」

「ねえ、車券で儲けるのは、どんな労力?」

「予想する労力かな」

「それって、石を拾う程度の労力?」

「どうかなあ」

 二人が競輪場に入る頃、日はすでに暮れていた。ナイター照明の灯った競争路は、昼間のように明るかった。

「車券は買わないの?」

「今日買おうと思っているのは第十一レースだけだよ」

 第十レースが終わり、第十一レースに出走する選手達が入場して来た。

 一番の選手がスタンド側を通ると、声援がひときわ大きくなった。

 声援を送っていた客達は、選手紹介が終わると思い思いに車券売り場の方向に歩き始めていた。

 マサキはしばらくオッズ表示を眺めていたが、ポケットから金を出すと係員のいる窓口に行って車券を買った。

「あれが穴場なの?主人公の奥さんがアルバイトしてるシーンを漫画で見たわ」

「最近は自動販売機が多いね」

「車券は何を買ったの?」

「二車単で13」

 第十一レースの号砲が鳴ると、ざわついていた場内が一斉に静かになった。

 選手達は淡々と周回を重ねていたが、周回告知板の数字が2を示すと動きが激しくなった。鐘を鳴らす係員はまだ動いていなかった。

先頭を走っている七番の選手が、残り一周半を示すラインを越えると鐘が鳴り出した。

 一番の選手は、ぴったり七番の後に付いていた。そして残り半周を過ぎるとしきりに後を振り返り、最終四コーナーで追い上げて来た五番の選手を弾き飛ばした。

結局、一番は七番を抜いて一着になり、直線で追い上げて来た三番が二着に入った。

「ねえ、当たりなの?」

「当たりだよ」

「もし一番が三番に抜かれてたら?」

「それだと31だから外れだったよ」

 マサキが払い戻し窓口に車券を差し出すと、窓口の女性は少し驚いた様子だった。窓口の中では、男性職員が見守る中、三人の女性職員が懸命にお札を数え始めていた。

「ねえ、温泉で会った時も競輪場に行ったって言ってたわね。目当ての選手がいたの?」

「大学を休学して競輪選手になった男のデビュー戦を観に行ったんだよ。車券は買わなかったけどね」

「その人は今も競輪選手なの?」

「いや、十年ほど前に引退したと思うよ。でも、そいつの息子も競輪選手でね。かなり活躍していて、2009年末の京王閣グランプリにも出走していたよ。九着だったけどね」

「ふうん。息子さんも競輪選手なの。四十年くらいたってるからおかしくないわね。で、あなたはずっと車券で生活してるの?外れることだってあるんじゃない?」

「もちろんそうだけど、結果はどうあれ、車券を買うのは月に一回だけと決めているよ」

「他の仕事をしようと思ったことないの?」

「それで食えるから、よけいな事はやる気もないね」

「儲けたお金で株を買おうと思った事は?」

「ぜんぜん」

「次のレースは決勝ね。今度は37だという気がするわ」

「今月はもう買わないよ」

 マサキは振り向きもせずそう言った。

「なんだか仙人みたいね」

 そっちこそ。とマサキは思った。今、いっしょにいる女は、たしかにマサキの記憶にあるミネコに違いなかった。四十年前と変わりない姿だった。まるで妖怪みたいじゃないか。

 マサキはそう言おうと思って振り返った。

 マサキの目に映ったのは、モニターを見つめている人々と、その間を駆け抜けていく一匹のネコだけだった。

(終)

 (終わり)