ビギナー

製菓工場をやめてから設備保守の仕事に就いた。3勤3休の交替勤務だった。
慣れない仕事で不安もあったが、ミエコと会う機会が増えた。
親と同居しているシンヤは、自宅から駅までバスで行き、駅から職場まで自転車で行くことにしたのだが、駅の駐輪場に空きがなかった。
幸いミエコのアパートが駅の近くだった。彼女のアパートに自転車を止めさせてもらうことにした。

明日から休みだという日の帰り、ミエコからメールが入った。

- 明日、競輪場に行かへん?

明日の午前中にアパートに行くよと返信してから自転車を置きにアパートへ寄った。
彼女の部屋をノックしてみたが、まだ帰って来ていないようだった。

翌日の10時過ぎ、シンヤはミエコのアパートへ行った。
ミエコはシンヤより6才年上の28才だった。
いろいろ教えてもらうことも多いが、アパートの鍵を渡されるという関係ではなかった。

インターフォンから、ちょっと待っとってという声が聞こえた。
1分もしないうちにドアが開いた。ボサボサ頭のミエコが現れた。

「おはよ、リビングで待っとって」

ミエコの部屋に入ったのはこれが初めてではなかった。2LDKのアパートだった。
一人で住むにはちょっと広そうだと思ったので、聞いてみたことがあった。
以前、医大生と同棲していたことがあるという答えが返ってきた。役にたたんから追い出したんよとも言った。
そして、ひと部屋空いとるよと付け加えた。

「待たせてごめんね。電車で行こ」

ミエコは先ほどとは打って変わり、美人のお姉さんという感じになっていた。

ミエコのアパートから駅までは歩いて3分だった。
切符を買ってホームでしばらく待つと急行が来た。

平日のせいか車内は空いていたので、ミエコと隣りあわせで座ることができた。

「女の友達と春木で待ち合わせとんねん」

ミエコは、和泉大津という駅を過ぎたあと、車窓にスタジアムのような建物が見えた瞬間、あれが競輪場かもしれないと言った。

車内放送で春木という声が聞こえると、向かいに座っていたおじいさんがやおら立ち上がった。
電車が止まり、ドアが開くと新聞などを手にした人達がいっせいに降りていった。
シンヤとミエコもそれらに混じり駅のホームを歩いた。
春木の改札を出て、警備員が2人立っている踏み切りを渡った。
警備員とあいさつしあっている人が何人かいた。今日は勝てそうかいというようなことを言われている人もいた。

線路沿いの歩道をまっすぐ行くと競輪場だが、女の友達とはその手前にあるショッピングセンターのフードコートで待ち合わせているという。
フードコートは1階の片隅にあった。

フードコートの端にあるテーブルでタコヤキを食べている女性がいた。
それがミエコの友達のヨシコだった。

「競輪てなんや。またおっさんと付き合っとんのー」ミエコがヨシコに声をかけた。

「弟が競輪学校へ行ってんねん」

「今日は弟みたいな年の友達連れてきたわ」

「ミエコといっしょに住んどるん?」ヨシコがシンヤに聞いた。

「そうじゃないんですけど。ヨシコさんは春木に住んどるんですか?」

「岡山や」

「岡山て、岡山県の出身なんですか?」

「岡山県なんか行ったことないわ」

ミエコが言葉に詰まったシンヤに助け舟を出した。

「山直に岡山町いうところがあるんよ。山のほうや。ヨシコのうちは包近桃の農園やっとんねん」

シンヤは岸和田市周辺のことはほとんど知らなかったが、岸和田に包近桃という特産品があることはどこかで聞いたことがあった。

「で、ヨシコ、どうすんの」

「弟の師匠が今日のレースに出走すんねん。これから行けば余裕で間に合うわ」

線路沿いに歩いて行くと競輪場の入り口があり、レース発売中と書いてある看板がかかっていた。
ヨシコのいう師匠は8レースに出場する予定だった。
3人はそれぞれ50円の入場券を買い、入場ゲートにいた女性に券を渡して入場した。

スタンドの壁に選手の写真がたくさん貼ってあり、ヨシコの弟の師匠だという選手の写真もあった。

「金髪ボウズおるやん」

「それが師匠やねん」

「右から3番目の選手、シンちゃんに似とらへん?」

女達は選手の写真を指差しながら勝手なことを言って喜んでいた。

横にある階段を上がると大型モニターのすぐ下に出た。競争路がすぐそばだった。
金網のところから競争路を見下ろすと、ゴロゴロと転げ落ちそうな急傾斜だ。

競輪は9人でレースすんねん、強い選手はたくさん競争得点獲れるねん、
競輪の競争路のことをバンクと言うねん、1回のレースで選手はバンクを5周するねん、
ゴールは青白の線が引いてあるところやねん、
車券は1枚100円から買えるねん、初めての人は枠連買うたらええねん、
当たった時の払い戻しはオッズ表をみればわかるねん、売れてる組み合わせのオッズは低いねん。

バンク横の金網に寄りかかりながらヨシコが矢継ぎ早に説明してくれた。

バンクを眺めていると、7レースに出場する選手が自転車を固定する台のところに並び始めた。
自転車にまたがり、深呼吸をしている選手もいれば自分の顔を叩いている選手もいた。
号砲が鳴ると同時に数人の選手がバラバラと飛び出した。

「なんで、みんなゆっくり走っとんの?」とミエコがヨシコに聞いた。

「残り2周になるまでは、たいていゆっくりやな」

やがて観衆がざわつきだした。残り2周を過ぎたようだった。
いつのまにか前の方に出ていた9番の選手が他の選手の様子を伺いながら徐々に加速していった。
途中、9番の後ろで1番と2番の選手がぶつかり合っていたが、9番がそのまま1着でゴールした。
さすが金メダリストというようなことを実況放送が叫んでいた。
9番は元スケートの選手で、冬のオリンピックで金メダルを獲ったこともある人らしい。
ぶつかりあっていた1番の選手が2着、2番の選手が3着だった。

「京都の選手強いやん。2番は大阪の選手やて。1番にやられとったやん。弱いやん」

「変やなー、予想紙には1番の選手は大阪に従兄弟がおるとか書いてあるから競らんと思うたけどな」

ざわつきの中、7レースに出場した選手が引き上げていくのと同時に、8レースに出場する選手が地下道から姿を現した。
競輪ではレースが終わるごとに次のレースに出走する選手達の紹介を兼ねて試走があるようだ。
シンヤには9人の選手が力をいれずバンクを思い思いに走っているようにみえた。

ヨシコが7番の選手に向かって、がんばってやーと声をかけながら手を振っていた。
7番がちらっとヨシコのほうを見て微笑んだような気がした。

「あの7番が弟の師匠やねん」

「なんや、ヨシコに気があるんと違う?」

ヨシコはミエコの突込みには答えずニヤッと笑っただけだった。

シンヤがヨシコに貰った予想紙を見ると8レースは1番が本命のようだった。師匠には○の印がついていた。
さきほどヨシコが言っていた競争得点の高い選手を探してみると、
僅差だったがいちばん高いのが2番、その次が5番で1番の選手は三番目だった。師匠は五番目だった。

2番の選手は2枠、5番の選手は4枠、1番の選手は1枠だったので、シンヤは複式の枠連で、1=2と1=4、2=4を買ってみることにした。

「なんや、1=2なんか買うたんか」

「さっき、競争得点の高い選手が強いと言うたやないですか」

「競輪はラインが重要やねん。競争得点はその次やねん」

ヨシコは3連単で、1番の入った券を何枚か買っていた。

「5番はまくりやろ。5番の番手の2番は5番しだいやねん」

まくりだの番手だのということは予想紙に書いてある並びという欄を見て言っているらしい。

ミエコにも聞いてみたが、買わずに見とるわと言った。

8レースに出場する選手達が地下道から姿を現した。

先ほどのレースのように3周目まではゆっくり走っていたが、今度は6番の選手が先頭に立つのが早かった。
1番の選手は6番の様子を伺っているようだったが、残り1周を切ったところで力をこめて自転車を踏み出した。
その瞬間、1番の後ろにいた7番が踏み遅れて1番の後ろが空いた。空いたところに2番が入った。
1番がそのまま後続を離して1着でゴールし、2番が続いてゴールした。
7番は必死に追い上げてかろうじて3着に入った。

「シショーなにやっとんやー」

ヨシコが力なく言った。3連単の当たりは127だったが、ヨシコは172なら買ってたと言った。

7番に罵声を浴びせているおじさんが何人かいた。

「あかんは、何か食べよう」

シンヤの車券は1=2が当たりで配当は1370円だった。1点あたり1000円買っていたので、3000円が13700円になった。
次のレースも車券を買いたかったがヨシコに付き合うことにした。
ヨシコについて行くと10テーブルほどの板張りのフードコートがあった。
場内は混んでいたが、寒いせいかテーブルがいくつか空いていた。
シンヤに席を取らせておいて、ヨシコ達はオデンとやきそばを買い込んできた。

「カレシ、当たったん。何回もやっとる人は、1=2が買いにくいねん」

「ヨシコさんがさっき、強い選手が競争得点いっぱい獲れる言うたからその通りに買うたんですわ」

「先行の番手が有利になることが多いねん。2番はラッキーやったな」

9番は慎重過ぎたんやろ、6番はめったに先行せーへんねん、5番は何やっとったんや。
ヨシコの講釈を聞いていたら9レースはすでに終わり、10レースが始まる時刻になっていた。

3人が金網のところに行くとちょうど9番の選手が1着でゴールしたところだった。
10レースに出場した選手が引き上げるのと前後して、11レースに出場する選手達が地下道から現れた。

「予想紙に書いてある通り8番は九州の3番手や。たぶん九州ラインの先行やな」

「なんでわかんの?」

「578と並んで走っとるやろ。選手紹介のとき誰と誰が連携するかを客にわかるようにしとるねん」

シンヤは選手達が思い思いに走っているのだと思っていたが、
ミエコとヨシコの会話を聞いて予想紙に書いてあるような順番に並んでいるのに気がついた。
予想紙には5番の九州の選手が先行すると書いてあった。その番手は7番の選手だ。

「あたしは7と2の頭で行くわ。ミエコもなんか買うたら」とヨシコが言った。

「3連単で1579のボックス買うわ。これなら2400円で済むわ」

「え、2番をはずすん?強いで」

「福井の男は嫌いやねん」

「嫌いなもんはバッサリやね。ミエコらしいわ」

女2人の会話を聞きながら、シンヤはふとミエコのアパートに住んでいたという医大生は福井の人なのかもしれないと思った。
しかし、それはどうでもよいことだった。ミエコのひと部屋空いているというのがどこまで本気で言っているのかが気になっていた。
今もそう考えているのだろうか。

「カレシ、今度は何買うん?」

ぼんやりしていたせいか、ヨシコに話しかけられてシンヤは少しギクリとした。

「なら、こんどは先行の番手を買うてみますわ」

シンヤはこんどは先行の番手と競争得点の一番と二番の選手を組み合わせて、1=2、1=5、2=5を買うことにした。

「それがええわ。あんたセンスええやん」

「さっき払い戻した分を全部かけてみますわ」

ヨシコにおだてられたせいか、勢いあまって言ってしまった。

11レースは大方の予想通り5番の先行だった。
5番は残り1周のあたりから一気にスピードをあげて先頭を走っていった。
後ろのほうで1番と2番がぶつかり合っていた。2番が1番の邪魔をしているように見えた。
それを尻目に5番7番の順に最終4コーナーを通過してきた。2番に邪魔をされた1番は内側から追い上げてきた。
7番が5番を少し抜いたところがゴールだった。

シンヤには7番が1着で1番が2着に見えた。その通りなら2枠複1=5が当たりだ。

しかし、観客の中にざわついている人が何人かいた。

- 1番は失格やないのか。内側走りすぎやろ。

ヨシコがバンクに向かって叫んだ。

「アホ!あたしは715買うてんねん。1番はセーフや」

715

電光掲示板に着順が示された。

- 審議にもならんのかい。

ざわついている人が何人かいたが、ほとんどの人はぞろぞろと払い戻し所や出口に向かって歩き始めていた。

「競輪は気合が一番、ルールが二番やねん」

「そういう問題なん?」

「そや」

「よう言わんわ」

「けど、ミエコの車券も当たりやろ」

「3人とも当たりなんと違う?」

女2人の会話を聞いていたシンヤもうれしくなってきた。
競輪は気合や、というのが気に入った。

2枠複の1=5は1450円の配当だった。
ヨシコの言う通り先行の番手が有利だとすると当然の結果に思えた。なんで14倍もつくねん。他の客はアホちゃうかと思った。

キャッキャッと喜ぶ女達を見ながら、競輪はチョロイなと思った。

 

※ブコウスキーの『ビギナー』を和風にアレンジしてみました。